悲しいとか悔しいとか、そういう風に思うとき、どうにかして悲しくないとか悔しくないとか、そういう風になりたいと願いがんばる。でも、嬉しかったり楽しかったりすると、そういう嬉しいとか楽しいとかのその向こう側を見たいとか見ようとかはあまり思わない。


なんでだろうなぁ。


嬉しいとか楽しいって、どこか心地よくて、突然やって来るその心地よさは、一生懸命にものごとを分析しようなんて気持ちをどこかに吹き飛ばしてしまうからなのかな。


悲しいも悔しいも嬉しいも楽しいも何かきっかけがあって、そのきっかけが僕に与えてくれるものなのだ。
悲しいとか悔しいを与えてくれるきっかけは、ちゃんとこっちを向かせて、そいつがどういう奴なのかを見られて、まぁお前にもいいところがあるさと、最終的には友好関係を持つし。
もし、どうしても友好関係がもてなければ、お前は掴みようの無い奴だから、またその内なと、一時避難される。
けど、嬉しいとか楽しいを与えてくるきっかけは、その嬉しさあまり、その楽しさあまり、ちゃんと見られないで、お前いたっけとなることばかり。


初対面でいい印象持ったからって、そいつ自身のことをちゃんと見つめてあげない限り、本当の友達になんてなれないだろう。今度から、ちゃんと彼らのことも見つめることにしよう、と、そんなことを考えた、やっとか、と思われつつやってきた梅雨のような雨の夜でした。