未熟者の写真観

シャッターを切ることは、どことなく何か大きな区切りをしているようで、今の僕にはあまり得意ではない。


以前は幾らでもカメラのシャッターを切ることが出来た。
去年いろいろとやったイベントの時なんて何百枚と撮ったことか。


とにかく、パチパチパチっとシャッターを切る。
そして、数百枚の写真の中から数枚の気に入る写真を見つけ出す。


どうしてか、ここ最近はそうやって気軽にシャッターを切ることが心地悪くなった。
気に入った数枚の写真にもれた何百枚という写真を取っているとき、いったい自分は何をしているのだろうかと考えてしまう。


休日に公園に行こうものなら、一眼レフを片手に様々なものを撮っているアマチュアカメラマンに出会う。
いったい彼らは何をとっているのだろうか。
どうせ彼らだって、何百枚と撮った写真の中でちゃんと眺めるのは数枚だけだろう。
そのことにどんな意味があるのだろうか。


ちょうど昨日読み終わった荒木経惟の本で、彼は彼なりの写真哲学を展開していた。
写真は”私現実”を写し出すためのものだそうだ。
とにかく、ファインダーを通して相手と肉眼戦を演じなければならない。
荒木経惟の文章は支離滅裂でいまだに良く分からないことがほとんどだが、それも、ま、よしとして、彼は岡本太郎に良く似ていた。


彼曰く、写真は綺麗であってはならないようだ。
この部分も太郎と良く似ている。


自分が撮った何百という写真を目の前にたらべて見て、それらの中から”私現実”を探すしかない、といっていたと思う。
なるほど、ぼくも、この点については悪くないな、と思う。
ファインダァを覗いて撮るようなカメラならほしいかもしれないな、と思う。