金?寝? ???

年寄 「いい若者がなんだ。起きて働いたらどうだ」

若者 「働くとどうなるんですか」

年寄 「働けばお金がもえるじゃないか」

若者 「お金がもらえるとどうなるんですか」

年寄 「金持ちになれるじゃないか」

若者 「金持ちになるとどうなるんですか」

年寄 「金持ちになれば、寝て暮らせるじゃないか」

若者 「はあ、もう寝て暮らしてます」


(By 江戸の小話)

花火と冒険

横須賀までは車でずいぶんかかった。
途中で渋滞に引っかかったりして、間に合うか心配だった。


駐車場はどこもいっぱいで、どんどん打ち上げ会場から離れていってしまった。


でも、車を止めて歩いていたら、ちょうどいい公園があった。
真正面ではないけれど、大きい花火であればとても綺麗に見れた。


ズドーンッと腹に響く、花火が爆発する音は気持ちがいい。


帰り道もまた渋滞につかまってしまった。
一緒に行った友達は結構遠くから来ていた。
あまり急ぐのもいやだし、土曜日なので、終電は気にせず、横浜の大桟橋の近くにあるカフェで一休みすることにした。
大好きなロール・キャベツを注文した。
取皿が無かったから、思い切って一口で食べたら、口の中をやけどしてしまった。
口の中を冷やすためにチチというカクテルを流し込んだ。


友達が、ここの店のチチはパイナップルジュールの変わりにリキュールを使ってるんだっ言っていた。
だから、結構きついとも言っていた。


でも、僕にはそんな強いようには思えなかった。


友達をはるばる家まで送って、自分の家に帰る。
帰り道、一人で車を飛ばしている。
明け方の道路には、車も人も少ない。
ちょっとした非日常だ。


いつの間にか眠気も吹き飛んで、とてもすがすがしい気分だ。
今日運転をしながら考えていたことを忘れないように、心のかなで繰り返し声に出す。
障害物をよけるようにして、前の車を追い越して、黄色い信号を飛び越えて、出来るだけスピードを殺さないように、ブレーキングに細心の注意を払ってカーブを曲がる。


そうやって、僕は自由を謳歌した。

いまのきもち

無性に寂しくて、何だか奥のほうが痛くて、とても惜しくて、つまり失いたくないんだ。


これだ。
今の僕の気持ちはまさにこれだ。


言葉は、気持ちを思い出す手伝いをしてくれる。
小さかった頃、まだまだ敏感すぎたかもしれない頃、その気持ちが言葉ではそう表現するんだなと知ったから、今はその言葉がその気持ちを忘れさせないでくれる。


生きるためには感覚を鈍らせないとやっていけない時がある。
だから、自分の気持ちを言葉に託して、自分の外に置いておくのかな。


必要なときには、その言葉と共に、大切な気持ちを思い出せるように。


でも、感覚を鈍らせないといけないってのはやっぱりいやだなぁ。
うん、やっぱりいやだなぁ。
ぼくは鈍らせないぞぉ。

未熟者の写真観

シャッターを切ることは、どことなく何か大きな区切りをしているようで、今の僕にはあまり得意ではない。


以前は幾らでもカメラのシャッターを切ることが出来た。
去年いろいろとやったイベントの時なんて何百枚と撮ったことか。


とにかく、パチパチパチっとシャッターを切る。
そして、数百枚の写真の中から数枚の気に入る写真を見つけ出す。


どうしてか、ここ最近はそうやって気軽にシャッターを切ることが心地悪くなった。
気に入った数枚の写真にもれた何百枚という写真を取っているとき、いったい自分は何をしているのだろうかと考えてしまう。


休日に公園に行こうものなら、一眼レフを片手に様々なものを撮っているアマチュアカメラマンに出会う。
いったい彼らは何をとっているのだろうか。
どうせ彼らだって、何百枚と撮った写真の中でちゃんと眺めるのは数枚だけだろう。
そのことにどんな意味があるのだろうか。


ちょうど昨日読み終わった荒木経惟の本で、彼は彼なりの写真哲学を展開していた。
写真は”私現実”を写し出すためのものだそうだ。
とにかく、ファインダーを通して相手と肉眼戦を演じなければならない。
荒木経惟の文章は支離滅裂でいまだに良く分からないことがほとんどだが、それも、ま、よしとして、彼は岡本太郎に良く似ていた。


彼曰く、写真は綺麗であってはならないようだ。
この部分も太郎と良く似ている。


自分が撮った何百という写真を目の前にたらべて見て、それらの中から”私現実”を探すしかない、といっていたと思う。
なるほど、ぼくも、この点については悪くないな、と思う。
ファインダァを覗いて撮るようなカメラならほしいかもしれないな、と思う。

生き迫られる

働くことについて書いてある本をきっかけに、いろいろと考えることが出来た。
それに加えて、今夜の同世代仲間の話はそれをもっと掘り下げる助けになった。
僕の同期はちょうど「働いていない」から「働いている」に変わる時期を、今まさに経験した存在だから、彼らと話すことは、働くことを外からと内からで見た人の反応で、とても聞き応えがあった。

社会人になって、社会のシステムのようなものの中の一部になることは、生き迫らせるようであり、生かされ迫られる感じなのだと分かった。
僕達はみんな時間に押されつつ、時間を追いつつ、人生のゴールまでどうやって走るべきか、人生のゴールをどう作るべきか、人生はゴールを目指すものなのかを、意識無意識関係なく含むようになるんだと分かった。


走り方も、ゴールの場所も、そもそもそんなものあるのかも、そんなに簡単に分かるものじゃないし、見つけ出そうとするべきじゃないかもしれなくて、もっと他の方に目を向けるべきものかもしれないけど、今ぼくが持っているそれに対する接し方は2つあって、今はその一つの方法をとっている。


僕はサラリーマンであって、サラリーマンじゃないものじゃない。
サラリーマンじゃないものの友達は、サラリーマンじゃない方法をとっている。


とりあえず、サラリーマンである今は、サラリーマンの方法をとって、
それをやめる時には、そうじゃない方法をとろう。


実は、今はそのそうじゃない方法にすごく憧れを持っている。
なんでだろう。

ものそのもの 

具体的に、


逃げも隠れもしないで、ただそれだけが、でもそれこそが自分なんだって、表現するテクニックは無くても表現したいものがあるからって、ものそのものを間近にしたことで自分のコミュニケーションの限界を超えられた気がして、それだけで遥々静岡県つま恋までいった意味があったなと考えていたら、無性に楽しくなってきた。


色々なアーティストが出てきてくれて、それぞれの声で歌を歌ってくれた。
気持ちの伝わってくる人と伝わってこれない人がいた。
気持ちの感じ取れる人と感じ取れない人がいた。

みんな確かにすごいけど、すごいは尊いとは違うんだなと分かった。
尊いは中身の問題で、すごいは外見の問題だと分かった。


中身の尊さを尊いままに表現することの難しさも分かった。
逆に、外見のすごさを剥ぎ取って、中身の尊さを覗き見ることのすばらしさも知った。


そしたら、無性に楽しくなってきたんだよね。

具体的

久々にオリンピックPの仲間でミーティングをして、
久々に10年後のことを一生懸命考えて、
久々にみんな同じ土俵の上で意見をぶつけ合い、
久々に時間を贅沢に使った気がした。


そして、昨日が発表の日。
昼間は10年後の夢を掲げて、こういうことがしたいんだと背伸びする友とプレゼン大会。
夜は他の同世代よりも早く世の中で生き始めたので、自分的にはすごいリアリストになったというフリーランスの友達と下北大会。


こんなに距離が近いところにいるのに、彼ら見ている世界はこんなに違うんだなぁと、いろいろ考えさせられる1日だった。
僕はどちらかというと前者の世界にいる。
でも、社会人になったことで少しは後者も見えてきた。


でも、一番大切なのって、前者だとか後者だとかじゃなくて、自分にとって大切なものがちゃんと見えているかということだと、結局は後者の彼女に背中を押されて、たたされた所からやっぱり見えた気がする。


ここからのことは全然あっている気がしないけど、最近、なんとなくそういう気がしてきたこと。
大学の時は一番大切なことに気づくために、一生懸命に考えたりしていた、でもそうじゃないかもしれない。


がんばらなくても
いいからさ
具体的に
動くことだね


最近よくよむ、相田みつお。
彼はおそらく、そんなに才能があったわけでは無かったと思う。
だからこそ、一つ一つ自分の挑戦と経験から大切なことを学び取ることが出来たのではないだろうか。
彼の言葉は本当にリアリティーをもって僕のところまで届く。


自分を具体的に動かすことだね。